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越後上杉軍と甲斐武田軍の激戦の最前線!武田軍が勝鬨をあげた八幡社もある「川中島古戦場跡」を訪れる

越後上杉軍と甲斐武田軍の激戦の最前線!武田軍が勝鬨をあげた八幡社もある「川中島古戦場」を訪れる

はい、皆さんこんにちは。日常生活が楽しくなる情報をお伝えすることを心がけている、旅する写真家のいんたらくとです。

川中島古戦場跡

今回は川中島古戦場跡を訪れています。川中島古戦場跡は、戦国時代に『川中島の戦い』と呼ばれる武力衝突が行われた場所です。川中島の戦いは、甲斐国の武田信玄が勢力拡大のため信濃国へと侵攻し、越後国の上杉謙信が信濃国の有力者たちの求めに応じて救援に来たことで始まりました。

1553年から1564年まで甲斐武田軍と越後上杉軍が支配権を巡って戦い、最終的には双方が勝利宣言をすることで終結したとされています。武田側は信濃国への影響力を強め、上杉側はそれ以上の進軍を食い止めたため、内容的にもほぼ引き分けという結果でした。12年にも及ぶ戦いとなっているので、もしかすると勝敗よりも落とし所で終結できたという結果のほうが重要だったかもしれません。

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信濃国 川中島古戦場の碑

広場の中央には『信濃国 川中島古戦場の碑』が設置されています。右側に武田信玄、左側に上杉謙信の名前が記載されています。まるでなにかの台座のように見えるのは、設置当初に佐久間象山の銅像が設置されていた正真正銘の台座だったからようです。2021年ごろに佐久間象山の銅像は、長野市立松代小学校の敷地内へと移設されています。松代小学校は文武学校に隣接しているので、現在は文武学校の塀の向こう側に見ることができます。

首塚

この首塚は『敵に塩を送る』ということわざのきっかけとなった首塚です。1561年の戦いの際に武田軍勢の海津城主高坂弾正が敵味方区別せずに手厚く葬った際に造られた首塚となっており、武田軍と上杉軍の犠牲者が合わせて葬られています。後に上杉謙信のもとへこの逸話が届き、感謝の印として『われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず』という書簡とともに、塩不足に悩む武田軍へ『塩』を送ったといわれています。

八幡社

八幡社は平安時代に『八幡大神』を祀ったことがはじまりと言われている神社です。ご利益としては、武運長久の強運必勝だそうです。川中島の戦いの際には武田軍の陣が境内に設置されており、上杉謙信が乗り込んできて武田信玄の一騎打ちが行われたと言われています。

武田信玄と上杉謙信の一騎討ち像

武田信玄と上杉謙信の一騎討ち像は、上杉謙信が単騎で武田信玄の元へと乗り込んで一騎打ちをした出来事を記念した銅像です。千曲川を超えて敵陣のど真ん中へ単騎で乗り込んでいくという上杉謙信の胆力は凄まじいものがあります。

首塚

八幡社の境内にも首塚があります。この近辺にある首塚はいずれも海津城主高坂弾正が造らせたものだそうです。

田中月亀・亀作父子の歌碑

跡しのぶ
川中島の朝あらし
いぶきのさ霧
おもかげに見ゆ
月廼亀麿

月影の入りにし後も
ほととぎす
ひとこえ残す
小島田の里

月廼亀守

田中月亀・亀作父子の歌碑は、戦国時代の戦いを後年の江戸時代に振り返って和歌を詠んだことにちなんだ石碑です。月亀は亀麿という号、亀作は亀守という号にてそれぞれ和歌が刻まれています。

おわりに

今回は上杉謙信と武田信玄が戦った川中島の戦いの跡地となっている川中島古戦場跡を訪れました。川中島の戦いは決着はつかなかったものの敵に塩を送るという有名なことわざのきっかけともなった上杉謙信と好敵手として戦った武田信玄の名前を広めた戦いになったのは間違いありません。日本の戦国時代の歴史が好きな方にはおすすめです。

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