コレヒドール島のツアーは、英語と日本語では内容が異なります。
はい、皆さんこんにちは。いんたらくとです。
【フィリピン2016その6】2016年2月29日(月)
期間:2016年02月27日~3月01日
訪問先:フィリピン共和国
目次
コレヒドール島上陸
島内を自由に回る事のできるバスが廃止されていますので、各名所に行くにはツアー参加が必須ですのでご注意ください!
日本語と英語のツアーの違い
ツアーバスは坂道をぐいぐいと登っていきます。
今回、人数が集まれば日本語も選べたのですが、手続きの段階では英語のみだったので英語ツアーに参加しました。この英語ツアーにも日本人が何人かいて、なおかつ日本語ツアーの催行人数を満たしていました。ですが、英語と日本語では内容が違うとツアーガイドさんが言っていましたので、英語がわかる方は英語のほうが良いかもしれません。
はっきりと言うと、それぞれの視点に合わせてツアーの内容が変わります。解説に重点を置いているポイントが以下のようになっているそうです。
日本語ツアーでは、1941年12月(日本がアメリカに勝利)
英語ツアーでは、1945年2月(アメリカが日本に勝利)
ツアーガイドさんはここで笑いをとっていました。それぞれの視点があって同じツアーなのに全く違うと。
※日本の世界史で習う内容に言い換えると、マッカーサーが撤退して「I shall return」と言ったのが1941年で、戻ってきたのが1945年です。
Middleside barracks(ミドルサイド旧兵舎)
▲corregidor.orgより
コレヒドール島の中心部に向かう途中にあるので、ミドルサイド旧兵舎と呼ばれています。
駐留していた部隊は以下のとおりです。
- 60th Coast Artillery anti-aircraft regiment(第60海岸砲兵対空連隊)
- United States Regular Army(アメリカ正規軍)
- 91th Coast Artillery(第91海岸砲兵隊)
- Philippine Scouts(フィリピンスカウト)
1915年に建てられて、1941年12月29日に日本の爆弾によって破壊されました。
爆撃で破壊されただけでなく、年月が流れているので、ただ朽ちていました。
Battery Way(対艦砲台)
コレヒドール島内に複数の砲台が設置されていました。アメリカ軍の設置した大砲群は精度の高い砲で、上陸しようとしていた日本軍を苦しめたそうです。
砲弾の傷跡が今も残っています。
弾薬庫の入り口と弾薬庫の内側。
Repair Shop(修理工廠)
山をくり抜かれて作られた修理工廠です。銃の修理から備品の修理まで島内で完結していたのでしょうか。
Battery Hearn(対艦砲台)
おそらく、このコレヒドール島で最も高い位置にある対艦砲です。
連絡トンネル
当時は島内の連絡用トンネルとして利用されていましたが、今では崩壊している箇所もあり進むことはできません。
兵隊さんが走り回っていたであろう長い通路です。
Battery Grubbs(対艦砲台)
砲撃の跡だそうです。コンクリートを貫通する威力だったようです。
旧日本軍(吉田部隊)遺構
吉田部隊用と書かれた建物があります。出入口のサイズが小さく、アメリカ軍の建物の造りとは明らかに違います。
建物の中にはトカゲがいました。
Mile-Long Barracks(マイルロング旧兵舎)
アメリカ軍の防空司令部があった兵舎です。この建物の裏には病院跡があります。
この建物は映画館があったそうです。
前方は開けていて現在はヘリポートが整備されています。
PACIFIC WAR MEMORIAL
Museum(博物館)
日本政府が発行した紙幣です。
アメリカ軍の作成した作戦図です。
両軍の行動を表した壁画もありました。某ブラウザゲームで登場した艦船が沢山います。
壁画の裏にある部屋では、実際の銃火器が展示されていました。時間的にここを見るのは厳しいので、興味がある方は先に行かれると良いと思います。
灯台
初代はスペインによって建てられました。現在は3代目です。
マッカーサー像
島内の至る所にある洞窟
島内にはこのような洞窟がたくさんありました。
Japanese Garden Of Peace
観音様や戦没者慰霊の碑がある場所です。
多くの若者が命を落としました。
Malinta Tunnel
ツアーとは別料金で、入り口でオプション料金を払って中に入ります。中は光と音のショーになっていて、幾つかのストーリーを聞きながら奥へと進んでいきます。
トンネルに入らない人は反対側までツアーバスで連れて行ってもらえます。
旭日旗があるこの場面では日本語の会話が出てきました。
ツアー終了
コレヒドール島ともお別れです。